時論 日本は1万円札を廃止せよ 米ハーバード大教授ケネ ス・ロゴフ氏 2017/8/1 本日の日本経済新聞より

今日の日経注目記事は、日本経済新聞のオピニオン面にある「時論 日本は1万円札を廃止せよ 米ハーバード大教授ケネス・ロゴフ氏」です。





 高額紙幣は廃止すべきだ――。マクロ経済学の第一人者、米ハーバード大学のケネス・ロゴフ教授の主張が世界的な論争を巻き起こしている。脱税やマネーロンダリング(資金洗浄)などの犯罪を減らす効果に加え、電子決済が普及すると説く。人類の経済活動を発展させてきた通貨は、金融とIT(情報技術)が融合したフィンテックが台頭する現代にどうあるべきか。

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 ――高額紙幣の廃止を主張しています。欧州中央銀行(ECB)が500ユーロ(約6万4500円)札の廃止を決めるなど、実際に見直しの動きがあります。

 「現金決済が主流の日本では荒唐無稽と思われがちだが、ユーロ圏だけでなく、カナダやスウェーデン、シンガポールも高額紙幣の廃止を決めた。日本にはまず1万円札と5千円札を廃止することを提案したい。米国は100ドル(約1万1千円)札と50ドル札だ。経済活動で現金が果たす役割の大きさは論じるまでもない。ただ、マネーロンダリングや脱税、収賄など犯罪行為で高額紙幣が果たす負の役割も大きく、現金の闇を取り除くべきだ」

 ――電子マネーやクレジットカードの普及で、高額紙幣は自然と淘汰されるように思えますが。

 「ところがそうではない。主要国では現金決済の比率が下がっているのに、世の中に出回る紙幣と貨幣の量はむしろ増えている。クレジットカードの普及で、米国ではドルの通貨流通量が1970年代、80年代は米国内総生産(GDP)の5%前後まで下がった。それが今では再び7%台まで上昇している。日本は70年代こそ7%程度にすぎなかったが、今では約20%だ」

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 「日本円の通貨流通量を国民1人あたりで換算すると77万円だ。家族4人にすれば300万円を超す計算だ。財布や家の中にこれだけの現金を持っている家計がどれだけあるだろうか。米国は1人あたり4200ドルの現金を保有している計算になるが、実際に財布や家、車の中に保管しているのは250ドル程度だ。企業の決済で現金を使うことはほとんどないだろう。大量の現金の在りかが、実はよく分からないのだ」

 「もう一つの特徴は、現金の流通量のうち高額紙幣の占める割合が圧倒的に多いことだ。米国では80%が100ドル札だ。この紙幣で1人あたり3400ドルを保管している計算だ。米国で100ドル札を使うことはめったにない。日本は90%が1万円札。ここから推計できるのは、高額紙幣の多くが非合法な経済活動で使われているのではないか、ということだ」

 「脱税で考えてみよう。米内国歳入庁の調査から推計すると、米国の脱税の規模は連邦政府分だけで年5000億ドル。地方税も含めれば、堅く見積もっても7000億ドル規模になる。現金取引が多い個人事業主や零細企業経営者の過少所得申告の比率が最も大きい」

 「高額紙幣を廃止して現金取引を電子決済などに置き換えれば、銀行口座などからマネーのやりとりを捕捉できるようになり、脱税の機会は大きく減る。仮に脱税が10%減れば、連邦と地方合わせて700億ドルもの税収増が見込めることになる」

「地下経済」縮み税収増える

 ――順法意識の高い日本では、そんなに脱税が多いとは思えませんが。

 「それは逆ではないか。オーストリアの経済学者の分析では、脱税を中心とした『地下経済』の規模は米国がGDP比7%で日本は9%と指摘している。米国は脱税への罰則が最も厳しい国の一つだ。多くの調査結果が日本のほうが脱税の比率が高いことを示している。財政悪化に苦しんでいる日本は高額紙幣の廃止によって税収増の効果も期待できる。世界的にも現金は麻薬売買や人身売買、テロ資金などに使われており、廃止の見返りは大きい」

 ――現金には取引の匿名性といった利点があります。簡単に廃止できますか。

 「資産隠しに適さない小額紙幣や貨幣は残せばいい。私が主張するのは高額紙幣の段階的な廃止だ。最良の技術によって貝殻から鋳造、印刷へと置き換わってきたのが通貨の歴史だ」

 「銀行口座を持たない消費者もいるので、すべての人が電子決済の金融サービスを利用できるよう、政府がデビットカードやスマートフォン用の口座を無償提供する。電子決済の普及は、紙幣の廃止を後押しするだろう。法的な枠組みで匿名性やプライバシーの保護も徹底すべきだ。こうしたコストは脱税を減らすことによる税収増で賄えるはずだ」

 ――世界的に普及が進むビットコインが現金の代替手段になるとの見方もあります。

 「クレジットカードのような決済手段をビットコインが取って代わることはあるだろうが、政府の統制が効かないビットコインは、ドルのような通貨そのものの代わりにはならない。ビットコインの流通量が増えれば、政府は必ず規制をかけるようになる。法規制によって金融機関では使えないようにするとか、極論を言えば小売店で使えないようにすることもできる」

 「ただ、政府が現金に替えてデジタル通貨を運用するようになれば、民間銀行の仲介が不要になって、金融システムが劇的に変わる可能性はある」

金融緩和にも新たな道

 ――高額紙幣の廃止は金融緩和にも効果があると主張していますね。

 「次なる経済危機に備えて、中央銀行はマイナス金利政策を本格的に検討すべきだ。日本の例を引くまでもなく、量的緩和政策には金利政策ほどの効果がない。ただ(景気を冷やさず過熱もさせない水準である)中立金利が低下しており、中央銀行はこれ以上は利下げできない『ゼロ金利制約』に苦しんでいる」

 「金融危機のような大きなショックに見舞われれば、景気を反転させる手段はマイナス金利しかない。日銀やECBは現在もマイナス金利政策を敷いているが、極めて小幅だ。中央銀行がこの政策を深掘りできないのは、銀行預金にマイナスの利子を課すことができても、預金者が資産を現金に替えてしまえば、マイナス金利を付けることができなくなるためだ」

 「ただ、現金を廃止してマネーを電子化すれば、簡単にマイナス金利を付けることができる。マイナス幅は4%程度まで可能になるのではないか。その先駆者となれるのは、あらゆる金融政策を試みてきた日本だろう。日本はマイナス金利の深掘りに向けて、高額紙幣廃止の研究を始めるべきだ。それだけで市場のインフレ予測が強まる効果も期待できる」

 ――マイナス金利を深掘りすれば、現金そのものに税金をかけて強制徴税するようなものです。生活者の理解を得られますか。

 「その論点は錯覚だと言いたい。2%のインフレ時に金利をゼロ%に下げても、0%のインフレ時に金利をマイナス2%に下げても、実質的には同じことだ。ただ、マイナス金利の痛みを軽減するために、小口預金者は対象外とすることも可能だ」

 「大胆なマイナス金利政策によって先行きのインフレ期待をつくり出すことができれば、長期金利はプラス圏で推移する。預金金利がマイナスに陥ることも避けられるはずだ」

過去800年の金融危機を分析 Kenneth Rogoff 1953年生まれ。専門はマクロ経済学と金融経済学。同じハーバード大のラインハート教授との共著「国家は破綻する」では過去800年の金融危機を分析し、政策当局者の必読書となった。チェスの名人としても知られ、78年には最高位の一つである「グランドマスター」を取得している。 トランプ米政権には「政策遂行能力がない」と手厳しい。ただ米経済の成長鈍化は金融危機の後遺症だと指摘し「米国の広い国土からすれば人口は5億人までは拡大余地がある」と潜在力を強調する。同僚のサマーズ元財務長官らが唱える長期停滞論は「10年もすれば誰も語らなくなる」と将来を強気に見通す。64歳。

〈聞き手から〉紙幣多い日本 問題視

 黒色のトランクを開けると何重にも敷かれた1万円札の束が顔を出す――。犯罪映画で見かける場面だが、ロゴフ氏は各国の政府統計などを用いて、現実に高額紙幣が非合法活動で大量に使われている可能性を明示してみせる。

 2001年から03年まで国際通貨基金(IMF)の主席エコノミストを務めたロゴフ氏は、世界的なマクロ経済学者の一人だ。その同氏が「紙幣」と「地下経済」という分野に「20年前から注視していた」(ロゴフ氏)という。それが「パナマ文書」問題に代表される課税逃れへの批判と、フィンテックによる電子決済の普及によって「紙幣廃止論」に結びついた。

 日本にも「クロヨン」との言葉がある。源泉徴収の会社員は所得の9割を税務当局に把握されるが、匿名性の高い現金取引が多い自営業者らは6割、農林水産業者は4割にとどまるとの指摘だ。「マイナンバー」の導入後にタンス預金が増加したのは、匿名性の高い現金による課税逃れとのロゴフ氏の主張を裏付ける一つの動きかもしれない。

 偽造などの問題で紙幣への信頼が薄い途上国は、一足飛びに脱・現金が進む。ケニアでは携帯電話を使った電子決済取引がGDPの4割に達するとされる。日本の国際通貨筋は「むしろ日本の紙幣流通量の多さが国際会議でたびたび問題視される」と明かす。テロ資金やマネーロンダリングの撲滅は紙幣廃止論を後押しする国際的な課題だ。

 ロゴフ氏は紙幣廃止論とマイナス金利政策を結びつけて議論する。利上げで先行する米連邦準備理事会(FRB)は、政策金利を中期的に3%まで引き上げる考えだ。もっとも戦後の景気後退局面で、FRBは平均5.5%も利下げしてきた。全体的に金利水準が下がった現在は利下げ余地が乏しく、打開策はマイナス金利政策しかないという。利上げにすらたどり着かない日銀は、よりマイナス金利の本格導入を検討すべきだとロゴフ氏は訴える。

 ただ、マイナス金利政策の可否は、紙幣廃止論と切り離して考えるべきだろう。マイナス金利を深掘りできないのは、現金という存在が制約になっているだけでなく、銀行収益や年金運用の悪化といった副作用が重いためだ。プラス圏での利下げとマイナス金利導入による痛みは、全く異なる。本格的なマイナス金利政策はあくまで未曽有の金融危機時などの非常手段であるべきだろう。

(ワシントン=河浪武史)



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