2014/04/23 本日の日本経済新聞より 「国立追悼施設、検討を」

今日は、日本経済新聞14版の4面(政治)にある「国立追悼施設、検討を 公明代表 総務相ら靖国参拝」から、要点と所感を整理する。

公明党の山口那津男代表は22日の記者会見で、新藤義孝総務相らが靖国神社を参拝したことを批判した。同時に、靖国神社に代わる国立の追悼施設について「真剣に検討してもいい」と述べ、政府に再検討を求めた。

靖国参拝問題の真相については他稿に譲る。与党の一員たる政治家が述べた見解に違和感を感じるので、所感をまとめたい。

山口代表は、他国の感情的な意見を踏まえ、解決の方向性を示している。靖国神社参拝問題は、様々な見方がある中、日本の政治家が特定、それも国外の意見を全面的に汲むかのような発言をし続けていることに筆者は違和感を覚える。

靖国神社は、政教分離という現在の憲法よりもはるか前から存在し、歴史的に政治家との関わりが非常に深く、一時は国民の精神的支柱でもあった宗教施設である。

その靖国神社について、現代の政治家がどのように関わるのか、ここに焦点が当たっているのが靖国参拝問題である。政治家の政教分離、はたまた、政治家個人の思想信条の自由、これらの二律のどちらが優先されるべきか。

国内ではこの議論を各人が自分の思想信条を頼りに模索している状況であるが、筆者の見解はシンプルである。

国民は、長い時間を経て育まれた文化や風土に強く影響を受けると同時に、文化や風土の体現者となっている。つまり、国民と文化風土は一体である。これらの集合体が国家である。

この国家の在り方、つまり国民や文化風土が作り出してきたものを他国民、他文化や他風土が肯定しないのは、ある意味、当然である。その当然の違い、埋められない溝をこちらの方から一方的に埋めていくと、一時的に溝は埋まるかもしれない。

しかし、再び、相手が遠のき、そこに溝ができたとき、どうするのか。いつか、埋めなくてもよい溝があることに気が付くはずである。

第二次世界大戦の途中から一方的な劣性となったにも関わらず、講和条件を厳しくし、完膚なきまでに叩きのめす戦略に出た戦勝国は、最後に実験的に原爆まで落とした。そして、敗戦後、大日本帝国を国家として完全に解した。その結果は日本人が民族として受け入れ、国体は全く別のものに塗り替えられた。今の日本は戦後の新国家であり、戦前からの国家系譜は完全に断絶されている。

そんな今の日本に対し、他国が大日本帝国憲法時代の責任を負わせようとするのは、国家対国家の論理ではなく、民族対民族の論理である。民族対民族の長い人類史からしても、溝が埋まらない、埋められないのが世の理(ことわり)である。そこを人類史に反してまで無理するのは、世の理(ことわり)に反している。

以上から、山口代表の発言について、筆者は世の理に反していると考えている。国民の共感を得られるような見識を持っていただきたい。

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