2015/03/24 本日の日本経済新聞より「リー・クアンユー後のアジア(上) 豊かさの先 変革の声 繁栄と分配、両立探る」

今日の日経注目記事は、日本経済新聞の国際面にある「豊かさの先 変革の声 繁栄と分配、両立探る」です。





 シンガポールのリー・クアンユー元首相が23日死去した。1965年の独立から半世紀の節目に、時に強引な手法で豊かさを追い求めた建国の父は去った。シンガポールの急成長期は過ぎ、同国を手本とするアジア各国も先進国入りを前に成長が鈍化する「中所得国のわな」に悩む。壁を越える新たな成長モデルの模索が始まっている。

 元教師のカン・ホクムンさん(67)は独立当時、10代の若者だった。幼児期に父を失い、養鶏所で働く母が3人兄弟の日々の暮らしを支えた。夜間学校を経て大学を卒業し、豊かさの階段を少しずつ上っていった。いまでは広々とした自宅に住み、海外旅行を楽しむ。「リーさんがいなければ、こんな暮らしはできなかった」と話す。

 2014年6月。シンガポール中心部の公園におよそ2000人の若者らの姿があった。公的年金の運用手法への不満を訴える集会では、リー元首相の長男で現首相のリー・シェンロン氏の退陣を求める掛け声も上がった。政府批判を厳しく制限する同国では極めて異例の風景だった。

 繁栄への感謝と強権への不満は、「開発独裁」とも呼ばれるリー・クアンユー氏の厳しい統治がもたらしたシンガポールの今を映す。

 「発展には民主主義よりも規律が必要だ」という信念は、「罰金国家」と皮肉られる特異な国を作った。シンガポールでは4月1日から公共の場所での夜間の飲酒が禁止される。罰金は最高2000シンガポールドル(約17万5千円)だ。チューインガムの販売、地下鉄(MRT)内での飲食にも罰金がかかる。

 リー氏流の一党支配が50年間も続けられたのは、日に日に豊かになる実感が不満を押さえ込んだからだ。だが、すでに衣食住は足り、かつてのような途方もない高成長は望めない。変革を求める声は高まる。

 同国政府が13年に実施した世論調査では15~19歳の回答者の44%が「社会の安定より表現の自由の方が大事」と答えた。かつてリー氏は「シンガポールの若い世代は自信過剰になっている」と漏らしたこともある。豊かさを当たり前ととらえる世代との溝は浅くない。

 国民の自発性を解き放す改革は、次の成長のためにも避けられない。「強権」は均質で優れた労働者を生み出し、製造業がけん引した経済成長を支えた。今、15年末の東南アジア諸国連合(ASEAN)の経済共同体(AEC)発足を控え、シンガポールが担うべき役割は金融やサービスなど高度化された分野であり、そこで求められるのは個々人の創造性だ。

 後継者であるリー・シェンロン現首相はかじを切り始めている。

 同国政府が発表した15年度予算案には、高齢者向け医療支援など福祉政策がずらりと並ぶ。高額所得者向けの所得税増税も決まった。国の成長を最重視して福祉は自助にまかせる「シンガポール型民主主義」は富の再配分に軸足を移しつつある。見据えるのは、エリートが意思決定を独占する既存モデルから脱皮し、幅広い層が国力の底上げに貢献する新たな道だ。

 シンガポールでは早ければ年内にも総選挙がある。11年の選挙では与党・人民行動党(PAP)の得票率は過去最低の60%に沈んだ。その後の補選でも与党は苦杯をなめ続ける。

 建国時に夢見た経済成長を遂げ、新たな国家像を描き始めたシンガポール。リー・クアンユー氏を失った国民は次の50年に何を求めるのか。

評伝 大戦時の占領生活、転機 日本に関心、晩年まで 孤高の生涯、支えは夫人

 23日死去した初代シンガポール首相、リー・クアンユー氏の生涯は平たんではなかった。日本軍による占領で苦難をなめ、厳しい生活から独自の政治哲学を導き出した。歯に衣(きぬ)着せぬ言動は波紋を呼んだが、アジアの論客としての足場はぶれなかった。

 リー氏は1923年、日常生活でも英語を使う比較的裕福な華人家庭に生まれた。幼児学校を飛び級して小学校に入学。中学校では寝坊を繰り返してむち打ちの罰を受けたこともあったが、常に成績は上位を維持した。だが、幸せな少年時代は42年の日本軍による占領で断ち切られる。学業を中断させられ、日本軍に対し「憎しみで心がいっぱいになった」と語る。

 ただ、「政治家を志したのは日本軍の占領がきっかけ」と言う。闇市でウイスキーやたばこを売り、経済の現実を知った。占領軍に何度も理不尽なビンタを受けたが、「厳しい罰を科すと人は犯罪を起こさないことを学んだ」とも話す。

 日本の占領時代の経験が「柔軟な経済運営」「厳しい国内統治」という政治スタイルを生んだ。日本経済新聞で連載した「私の履歴書」では「人間は残念ながら生まれながらにして性悪だと考えている。だからそれを律しなければならない」と記している。

 59年に英連邦自治州の首相に就任、65年にマレーシアから事実上追放される形でシンガポールが独立した後も日本との関わりは深かった。

 70年代に持ち上がったシンガポール初の石油化学コンビナートの建設では、リー氏が当時の住友化学工業社長だった長谷川周重氏や中曽根元首相らに協力を求めた。現在、西部の工業地帯ジュロン島はアジア随一の石油化学基地となっている。

 世界有数の航空ハブ、チャンギ空港の管制塔や金融街のビル、交通システムの多くも日本企業が手掛けた。繁華街オーチャード通りの高島屋は地域一番店の座を誇る。

 日本の経済発展を目の当たりにして、日本人の勤勉ぶりを手本に挙げた。「シンガポールの労働者は日本人のように向上心を持つべきだ」と自国民を鼓舞した。

 一方、日本のバブル崩壊後の90年代には「中途半端な市場開放は日本にとって非効率だ」と規制緩和に尻込みする日本を批判した。アジアの発展に何が必要なのかを知り尽くしていた。

 孤高の生涯の支えは家族だった。弁護士志望のクワ・ギョクチュー氏と熱愛の末、夫人の家族に内緒で英国で結婚。クワ氏は弁護士を続け、リー氏は「彼女はとても優秀」「私は恵まれている」と夫人が10年に死去するまで手放しで褒め続けた。長男で現首相のリー・シェンロン氏をはじめ3人の子供に恵まれた。

 「言えることはシンガポールを立派な国にしようとベストを尽くしたということだけ。人々がどう評価するかは自由だ」。リー氏は首相退任後にこう話した。

(シンガポール=吉田渉)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です