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先輩に聞く 挫折から学ぶ 手届く目標重ね200勝 元プロ 野球選手、黒田博樹さん 先輩に聞く〜挫折から学ぶ 2018/4/2 本 日の日本経済新聞より

今日の日経注目記事は、日本経済新聞の18歳プラス面にある「先輩に聞く 挫折から学ぶ 手届く目標重ね200勝 元プロ野球選手、黒田博樹さん 先輩に聞く~挫折から学ぶ」です。





元プロ野球選手、黒田博樹さん

 日米のプロ野球で活躍し、伝説の投手となった黒田博樹さん。その球歴は、さぞ輝かしいと思いきや、高校時代、大学時代は苦労の連続だった。プロ入り後も、初めは決して順風ではなかったが、手の届く小さなゴールを常に設定し、それを達成する努力を惜しまなかった。その積み重ねが日米通算200勝という金字塔につながった。

 「高校時代から米大リーグを目指すような選手だったら、きっと途中でつぶれていたと思う」

 野球の腕を買われ大阪の強豪、上宮高校に進んだが、いきなり挫折を味わった。「とんでもないところに来てしまった」。中学時代はそれなりの投手で、だからこそ野球進学したのに、1年先輩にはロッテで息長く活躍した薮田安彦さんがおり、同級生にも日本ハムで活躍した西浦克拓さんがいた。いずれエースナンバーを背負って甲子園のマウンドに立つ夢は、あっさり遠のいた。

 そこで黒田さんが自分に課した目標は、「なんとか3年間、野球を続ける」。野球部を辞めることは高校を辞めることを意味していた。自分より才能豊かと思う先輩や同級生に交じって過ごす毎日は、いつ終わりがくるのだろうと思うほど、つらい日々だったと振り返る。

 3年になり、ベンチ入りメンバーにはなったが3番手投手。公式戦で投げるレベルではなかったし、甲子園にも縁がなかった。

 大学で野球を続けようと思ったのは、高校時代に完全燃焼した手応えがなかったから。

 専修大学は当時、東都大学野球リーグの2部で、決して華やかな舞台ではなかった。ここでの黒田さんの設定したゴールは、公式戦で投げるレベルの投手になること。大学野球では先発投手は2人だから、チームで2本の指に入る投手になることが目標になった。

 4年生でようやくつかんだエースの座。1部昇格の時期と重なる幸運もあり、ここで初めてプロ野球を意識した。

 ドラフト2位で広島東洋カープに入団。1位は同じ東都リーグ、青山学院大のエースだった沢崎俊和さんだった。沢崎さんは1年目から12勝を挙げ、新人王を取るほど活躍したが、黒田さんは6勝するのがやっと。1軍で1勝という当初の目標はすぐに実現したが、黒田さんは次の目標として「沢崎に追いつこう」と決めた。

 当時のカープの投手陣は世代の幅が広かった。40代でも活躍する大野豊さん、30代の佐々岡真司さんがエースだった。4年目に入り、徐々に手応えが出てきた黒田さんに新しい目標ができた。「カープのエースになる。エースとして結果を出す」

 転機となったのが2004年のアテネ五輪だ。上原浩治さん、松坂大輔さんら他チームのエースと一緒に戦い、刺激を受けた。後に、松坂さんが米大リーグに移籍し、初めて黒田さんも大リーグを意識するようになる。

 米国に渡ったのは32歳のとき。大リーグで結果を残すこと。これが次の目標になった。

 自分で決めた道。結果を出さないと、ただの自己満足で終わってしまう。結果を残すために、黒田さんは投手としての生き方を大きく変えた。剛速球で三振を取るのをやめ、変化球で打たせて取る投手になった。そうしないと米国では結果が出せないと思った。

結果を出し続けることにこだわり、メジャーではあえて単年契約を選んだ

 メジャーで活躍している間も、結果を出し続けることにこだわった。だから複数年契約が珍しくない米国でも、あえて単年契約を選び、自分にプレッシャーをかけ続けた。

 メジャーに行くとき、もう日本で投げることはないだろうと思った。ダメなら戻ればいいという考え方は、カープに失礼だと思った。ただ心の奥底では、もしも日本に戻る日が来るならば、カープ以外の選択肢はなかった。

 不遇だった高校時代や大学時代、自分の野球選手としての将来が、こんな形で開けるとは夢にも思わなかった。人生の先は誰にも見えないし、わからない。だからこそ、今の自分に見える、手が届く小さいゴールを決め、それに向けて努力を重ねて結果を残す。

 今の状況が厳しくとも、思い通りでなくても、目の前の小さな目標を越えていく努力を続ける。その積み重ねの先に成功が待っている。寡黙な黒田さんは、それを背中で語ってくれる。

20億円断った「男気」 経済的な基盤が後押し

 黒田さんといえば「男気」が代名詞だ。米国での年俸20億円超のオファーを断り、4億円で広島へ。お金より大事なものがあるのは事実だろうが、一方で黒田さんは、年俸は選手の評価であり、お金は軽視すべきではないとも考える。米国で多額の報酬を得て、その蓄えがあったからこそ、お金ではない部分で広島復帰を決めることができた。

 社会に出たら、ある程度の経済的な基盤を固めることも大切だ。人生では大きな決断をする場合が必ずある。経済的な理由で夢を断念するのは悲しい。

 黒田さんには、いずれカープで指導者にとの期待は多い。「自分のひと言が若者の人生を左右するかもしれない。覚悟を決めないと簡単にはできない仕事」と語るが、そんな黒田さんだからこそ、若者は教えを請いたいと願う。

 10代、20代のうちは人生の先が見えず、不安になることも多い。黒田さんは「18歳のころ、自分がヤンキースタジアムの先発マウンドに立つなんて想像だにしなかった。若者の可能性は無限大」とエールを送る。

(編集委員 鈴木亮)



先輩に聞く 父から逃げて変われた 私は私、答えは一つじゃない ディー・エヌ・エー会長 南場智子さん 2016/07/18 本日の日本経済新聞より

今日の日経注目記事は、日本経済新聞の18歳プラス面にある「先輩に聞く 父から逃げて変われた 私は私、答えは一つじゃない ディー・エヌ・エー会長 南場智子さん」です。





 ディー・エヌ・エー(DeNA)創業者の南場智子会長。学生時代は自身もあきれるほどの世間知らずだった。厳格な父親を恐れ、敷かれたレール以外を自由に走りたいともがくうちに、日本を代表する起業家になった。父という絶対的な壁が「経営者 南場智子」をつくりあげた。

 とにかく父が怖かった。地元・新潟で石油卸業を営む経営者で、まさにボス。子供の頃は直接口をきくこともなく、隣に正座をして黙ってお酌をしていた。父に伺いをたて父が決めたことが絶対という家で、大学の学科も父の言葉に従った。

 津田塾大学への進学は「寮に入る」「男性と交際しない」など条件付き。ボーイフレンドはつくったが、離れていても父が怖い。寮の門限に遅れたら父に連絡が行くのではと常に恐れていた。

 1メートルでも父から離れたい一心で大学4年のとき米国に留学した。留学枠は毎年1人と狭き門だったが、それが勉強するモチベーションになった。

 米国では人生初の自由を謳歌。留学は親子関係に変化をもたらす

 留学先のブリンマー大学ではやりたい授業を選べた。好きだった経済学をみっちり勉強した。成績がよかったので経済学者になろうかと経済学の教授に相談したほどだ。

 1年で帰国すると「就活」が待っていた。リクルートブックが送られてきたが、まずリクルートブックの意味が分からない。社会の仕組みがわからないし、どんな仕事があるかも知らなかった。たまたま米コンサルティング会社のマッキンゼー・アンド・カンパニーで働く先輩に誘われ、説明会に行ったら格好良かったので試験を受けた。コンサルタントの何たるかも知らなかったが、賢そうに話すのは得意だったので受かってしまった。

 卒業後は新潟に帰る約束。父にどう切り出したものか、非常に緊張して電話をした。すると意外にも「受かったのか。おめでとう」と。渡米し距離が離れたのに反比例して気持ちが少し近づいたのかもしれない。実は留学中、ほぼ毎日父から手紙が来て、私も手紙を書いた。その時初めて父を好きかもと思った。父も私が大人になったと感じてくれたのではないか。

 子供の頃は自分に語れるものがなかったが、マッキンゼーに入り経営のことなどがわかるようになると少しずつ父と話せるようになった。そんな自分が誇らしかった。今も父のことは怖い。怖いけれど「自分のDNAの半分は父のもの。その私がこんなに弱いはずはない」と、父の存在は事業をする自分の最後の心のとりでになっている。

 DeNAで採用活動を主導する。日本の学生に対し危機感を持つ

 採用の際にすごく大事にしているのが「思考の独立性」。私は父の“支配下”にいて自ら考えなかった。親の言うなりという人は少ないが、先生や友達、マスコミなどいろんなものに支配され思考の独立性を失っているように思う。会社も、会長や社長が「答え」だと思ってしまうとバランスを欠いた組織になる。

 日本人は「答えは一つ」という教育を受けてきた。高度に均質化した工業製品をつくっていたころはそれがベストだったが、今は邪魔になる。自分で考えて答えを導き出す訓練を積む必要がある。常識や過去の事例から導き出せることはすべて人工知能(AI)ができる時代。人間は新しい課題をどう解決するかという仕事をすべきだ。

 私も自分の頭で本当に考えられるようになったのはDeNAを立ち上げてからかもしれない。会社を生き残らせるにはどうしたらいいかと考えるようになった。「よくやったね」とほめてもらっても、会社は残せない。